ご挨拶
當山には、宗門的も歴史的にも貴重な宝物や建築物が遺されています。
しかし、その
宝物のうち盗難や紛失の憂いの在る物は、大部分は名古屋市博物館に格護されておりま
すので、普段私たちの目に触れることはありません。
ましてや壇信徒さんの多くはその存在
すら知らないことと存じます。
目録でのみその名称と所在を知り得ます。
余談ですが名古
屋市博物館の寄託品の中でも當山の宝物は第5番目であるそうです。
當山には歴代住職の覚え書きが、伊勢湾台風の被害を受けながらも残っておりました。
もう少し先の話になりますが、当山の歴史を伝えるために、寺門誌を完成し、現代では忘
れられている江戸時代の中本寺住職の仕事や、檀信徒のご先祖が日蓮大聖人を真摯に
進行している市姿を知り学ぶ機会を作りたいと願っております。
南無妙法蓮華経
合掌
平成30年
長久山實成寺第四十九世渡邉 英晃
實成寺の開創
實成寺の開山善學阿闍梨日妙
上人(1240〜1282)は、もと信言宗の僧侶で、尾張国に立ち寄った
日蓮聖人(1222〜1282)と法論を行い帰伏、聖人の弟子となりました。
日妙上人は当時通称大御堂・中萱津實成寺(妙勝寺で密勝寺という)
と号していた自らの住坊を日蓮宗に改め、長正山妙勝寺といたしました。
日妙上人はその後教線を拡張して、萱津の地は日蓮宗を中心とした宗教都市を見せていたと云われています。
鎌倉の円覚寺(臨済宗大本山)蔵『尾張国冨田荘絵図』(国宝)の上萱津に所在する円聖寺を改宗し上萱津妙勝寺と称し、
中萱津と上萱津の二つの妙勝寺を管轄したようです。
その後、日妙上人は百歳の時に、上萱津妙勝寺を弟子の日長上人に譲って、中萱津の妙勝寺に隠居されました。
日妙上人は貞和元年(1245)に百六歳で遷化するまで当山に住しました。日妙上人遷化の後、当山は上萱津妙勝寺二世の日長上人(1314〜1399)が継承しましたが、当初の当山は上萱津妙勝寺と所謂両山一主の制を採っており、上萱津妙勝寺と当山住職を兼帯したと伝えてられています。
『尾張荘冨田絵図』は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期までに製作されたと云われ、萱津宿の一部も描かれ、この時代の萱津の様子を垣間見ることが出来ます。
この絵図では、当山を、高い由緒のある寺院の尊称として用いられることの多い名称である。「大御堂」と通称していたようで、
恐らく前身である「十如堂」と称した天台宗、若しくは信言宗時代からの通称に由来するものでしょう。
両山一主制のもと、二世日長上人が主導していたこの時代、上人は尾張国六ツ師村に長栄寺と善門寺という二ヶ寺を開創して当山の末寺としました。
妙勝寺と實成寺
妙勝寺と實成寺両山二世日
長上人は応永6年(1399)3月10日、世寿86歳にて遷化されましたが、上人の遷化後、当山には妙勝寺とは別に住職がたてられて、両寺一主が解消されました。
日長上人が遷化された年である京都の大本山本圀寺の五世である日傳上人(1342〜1409)が尾張国に下向しました。
このとき上人は上萱津の妙勝寺に立ち寄り、その伽藍の立派さに感心し、翌年、上萱津妙勝寺の三世となった日禅上人に対して、妙勝寺を本圀寺門下の板東惣本寺に任じる旨の証札を発給するとともに曼茶羅本尊を授けました。これをもって上萱津妙勝寺と当山を含む日妙上人門下は、京都本圀寺との関係を持つようになり、後に本圀寺の末寺となりました。
かつて上萱津妙勝寺と両山一主の関係にあった当山は本圀寺門下の尾張中本寺として、高い寺格を有することになります。
当山の三世を継承した日肝上人(1371〜1438)は、名古屋本要寺および当山塔頭泉龍坊(現泉龍寺)を開いて、大いにその教線を拡大しました。日肝上人は永享10年(1438)七月に遷化されますが、当山には上人一周忌に四世日観上人(?〜1452)によって造立された日肝上人供養塔(笠塔婆)が現存しています。
当山が寺号を「妙勝寺」から現在の「實成寺」に戻したのは、当山の大壇越である尾張守護代織田敏定公の外護を得ていた明応元年(1492)、六世日倫上人代のことであると伝えられています。
織田敏定公の外護
織田敏定公(1452〜居土)は、尾張守護職斯波氏被官でありました織田一族のうち、織田大和守家(清洲織田家)の初代です。
応仁の乱に伴って起こった尾張国の戦乱では、織田氏の総領であった尾張守護代の織田敏広(?〜1481、織田伊勢守家)と対立。
一時期京都に住しますが、文明10年(1478年9月9日、室町幕府から尾張守護代に任じられ、織田敏広らの討滅のため尾張に下向。
同年10月12日と12月4日に織田敏広との合戦を経て、翌文明11年(1479)一月に和睦。共に尾張を分割統治することになりました。
その結果、敏定公は守護代として清須城にあって愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡の下西郡を支配しましたが、明応4年(1495)7月、44歳にて在陣中に死去しています。
敏定公は、篤信の日蓮宗信者で、特に当山に篤い外護を寄せました。文明13年(1481)には、当時尾張国で起こっていた京都本圀寺と身延山久遠寺による宗門正嫡の争いに関連して織田大和守家の宗旨門流を決するために、敏定公は両寺の代表者清州城に呼んで法論をさせ、京都本圀寺方勝利の裁定を下しています。
この対論は「清洲宗論」と呼ばれていますが、この宗論の結果は、敏定公が当山を初めとする本圀寺門下に属した寺僧を篤信仰していたことの表れでしょう。また当山には、敏定公が歿して3年後に制作された鰐口や、このころ造立された石塔部材が現存しており、当時の隆盛を今に伝えています。
- 織田敏定安堵状
- 鰐口
近代の實成寺
四十世日登上人(1833~1916)は明治15年(1882)に入山すると、翌年には身延山久遠寺塔頭で行学院日朝上人ゆかりの覚林坊より、日朝上人の尊像を譲り受け、当山に奉祀しました。
日朝上人(1422~1500)は身延山久遠寺十一世の法主で、当山大檀越織田敏定公と同時代の高僧です。上人の高い学徳から、学問や眼病の守護神として大いに信仰されています。
その翌年には覚林坊より日朝上人の御真骨も分与され、当山と縁が深く、また身延山にも多くを丹精した尾張千人講や累徳講など当山ゆかりの講中より篤い崇敬を受けました。
明治24年(1891)10月24日の濃尾大震災では、本堂と山門と番神堂を残し、妙見堂・朝師堂や庫裡など15棟の建物が倒壊するという大災害を蒙りました。
この時、妙見堂の倒壊により数名の寺僧が犠牲になったと伝えられています。四十一世日房上人(1844~1916)は直ちに復興に努め、同26年に本堂と山門を修理、
30年に庫裡を再建、31年に鐘楼を再建し寺観を旧に復しました。
また、四十二世日洽上人(1862~1922)は大正10年(1921)に日朝堂(現在の開山堂)を建立し、四十三世日汎上人は、昭和7年(1932)に本堂、番神堂を修理し、位牌堂(現在の納骨位牌堂)と廻廊を新築しています。しかし昭和16年(1941)に行われた日蓮宗の本寺末寺の関係解体、
および終戦後の農地解放により、当山は大きな打撃を蒙り、戦後は厳しい寺院経営を強いられました。
現代の實成寺
戦後のこのような苦難の中、四十五世日長上人(1885~1981)は戦時中の供出により失われてしまった梵鐘の再鋳を、昭和24年(1949)に果たしています。
先代四十八世日頌(現日如・渡邉英岳)は、昭和53年(1978)8月の入山以来 本堂・書院その他諸堂の修理に努めるとともに、宗祖大聖人、本堂十界諸尊などの尊像修理、門前の国有境内地払い下げを受けての駐車場整備、庫裏の新築、宗祖大聖人の銅像建立、釈尊涅槃石像を奉安した歴代廟かつ合祀永代供養塔、納骨位牌堂の複合廟「長久廟」の建設など、当山の寺観を一新するとともに、旧日朝堂に開山日如上人御尊像を遷座して開山堂に改め、より檀信徒に身近な信仰の場としての寺院の整備に努めました。その中でも、平成18年(2006)に立教開宗750年報恩事業として行われた、晋山後再度となる本堂の大修理は、建立当初は柿葺であったと推測されるものの、江戸時代の修理で瓦葺にされていた屋根を、柿葺の姿を意識した銅版葺に葺替えるなど、中世の端正な姿への復元を意識しつつ、耐震補強をも施した大規模なものでした。また、当山を勇退し、神奈川県小田原市の妙了寺に再住するにあたり、現住日遵(渡邉英晃)と、山門脇に新たに寺務所を建設、また旧開山堂を当山結縁の納骨位牌堂「長久庵」に改修して、より身近なお寺を目指すとともに、境内墓地の大整備事業の着手を決意。檀家諸家のご理解とご協力を得て、平成22年(2010)より全面的な墓地の大整備に着手し、「長久墓苑」「萱津墓苑」の名称のもと、環境改善と利便性の向上を果たしています。
實成寺の主な寺宝
- 日蓮大聖人御真筆 曼茶羅本尊
- 釈迦如来図
- 諸天善神勧請絵曼茶羅