◆日蓮大士真実伝◆高祖大士真実録◆御遺文による大聖人正伝◆立正安国論◆伊藤先生提唱 行道清規

長久山 実 成 寺 第四十八世 渡 辺 英 岳

【 法 話 】
 法難は釈尊のはからい
 
近年より近日にいたるまで、天変地異・飢饉疫病、あまねく
天下にみち、ひろく地上にはびこる。牛馬ちまた巷にたおれ、
がい骸こつ骨みち路にみち、死せる者すでに大半をこえ、
これを悲しまぬ者あえて一人もない。
     (『立正安国論』原文漢文・現代訳)
 日蓮大聖人は悲惨な世相をご覧になって『立正安国論』をしたため、 鎌倉幕府の施政を諫めるため北条時頼に奏献しました。 これによりおおやけ、公の場で時の指導者と討論して、政治や宗教界の 姿勢を正そうとされたのです。 対する幕府の答えは、伊豆流罪と竜の口で首をはねる刑であり。 亦、民衆を扇動して松葉が谷のお住まいの焼き討ちでした。 それでも大聖人の命を亡きものとすることが出来ないとなると、最後の 手段として卑怯にも佐渡流罪を命じました。  佐渡流罪とは、大聖人のご一生が佐渡で終わることです。 ましてや赦免など考えられず、布教は出来ないことを意味します。 しかし、佐渡へ行かれたのは大変な不幸ではあったが、そのために政情 不安のときには、鎌倉におられなくて幸いでした。  大聖人は、「こうして元気でいられることは、利益であり天の加護で ある」また、『法難は釈尊のはからい』であるとも云われています。  このように考えたとき、大聖人は佐渡流罪のお陰で、御教えの根本で ある『開目抄』『本尊抄』の二篇をお書きになられ、私どもに遺すことが 出来たのです。 鎌倉ではなく流人として限定された生活を強いられたから、筆を持つことが できたのです。 鎌倉で、始終人が来たり、布教にお出になる身では、とてもこれをお書きに なる時間はなかったでしょう。 こう考えると佐渡流罪は、大変よいことだった(=『法難は釈尊のはからい』)と云う ことになります。  釈尊は、私たちを『我が子である』と法華経で云われています。 佛の子として釈尊のはからいの中で活きているはずの子どもが、陰湿で 堪えられない「いじめ」に苦しめられている。 その原因が先生であったり、優しく守ってくれるはずの親でもあるようです。 さらにその姿を見ても知らないふりをする、同級生など周りの傍観者の責任は 大変に大きい。  人の世は、いじめと欲望のうずの中にあります。 しかし、大聖人の教えを頂く私たちは、佛の子として『釈尊のはからい』の中に あることを強く信じたいものです。  立正安国論で予言された、たこく他国侵逼の難が蒙古来襲の危機として、 自ほん界ぎゃくなん叛逆の難が幕府内の同士の争いとして的中することとなり、 大聖人は赦免されました。  大聖人が今ご在世ならば、現代社会の山積する諸問題に対して、私ども門下に 如何なるご指示が頂けるかを、真剣に考えなければならないと思います。                         [平成17.1.17更新]
お盆を前に思うこと   當山ではお盆を前に、先の戦争でご主人を亡くされ辛酸を なめられた方と、満州で敗戦を迎え幼子を四人連れて苦労して 帰国されたおばあさんのお葬式を営みました。 当然お年は80歳の終わりの方と90余歳の方ですが、特段の 疾病ではなく老衰で、薪尽きて火が消えるようにお亡くなりに なりました。  當山の関係者で、このような形の戦争犠牲者は、戦後60年を経ますので 最後の方のように存じます。 また、私個人としても、去年8月に師父を行年103歳で送りましたので、 今年は一周忌と共に初盆の供養をさせていただきます。  その様なとき、このごろの、特に各種の発言や行動の中に、心配でならない 毎日を過ごしております。 また、実成寺の住職としては、檀信徒の方のご先祖のご供養は、私でなければ 本当の供養は出来ないと自負をしておりますが、小泉総理の靖国神社参拝問題を 考え合わすと、心配でならないのであります。  『靖国で会おうと誓い合い』ながら戦場に赴いた若人の心を思うと、遺族会の方 の思いは充分拝察しますが、戦後60年ご苦労をなさった二人のおばあさんと 師父らは、銃後で一番ご苦労を戴き、今日の日本を創りあげた立役者と思います。 しかし、國としての思いやりはなにも在りません。 靖国神社としても手段の及ばない方達であります。  その様なことを考えているとき、今日、昭和天皇が『靖国のA級戦犯に合祀に 不快感』という報道を耳目にしました。  私が初めて昭和天皇とお逢いしたのは、私の通学する小学校へ戦災の慰問に お越しになったときでした。 低学年の時のことで詳しくは理解してはおりませんが、再建中の校舎の前の 運動場で遊技をしながらお迎え致しました。  また、その日の朝のことをたびたび思い出しますが、昭和天皇は、岐阜の県庁の 正面から自動車に乗られたことを、見たように記憶しております。 あとで考えることですが、岐阜のホテルや旅館は、当時は全部がアメリカの進駐軍に 接収されており、日本人が使用できる状態ではなかったので、昭和天皇も県庁の焼け 残った一室に泊まられたのだと拝察しております。  この県庁宿泊のことは私の思いこしかもしれませんが、『靖国のA級戦犯に合祀に 不快感』の昭和天皇の思いは、戦後いち早く全国を慰問された陛下の心と思い合わせ 考えると、不思議と理解できる私でもあります。  中国や韓国の要人が、わが国の指導者に対して靖国神社参拝に異議を唱えて居り ますが、近ごろ亡くなられた方々や銃後で苦労なされた方達の思いを、代弁してく れているようにも想われてなりません。  當山としても、今年のお盆は毎年のにもまして大切に思われます。 合掌    南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 [平成18.7.24更新]
 年の終わりに聞いたうれしい話 まず匿名の手紙を紹介します。 保護司だった 箕浦様へ 前略 その節はお世話になり有り難うございました。 職種はずっと同じでしたが長続きせず、転々としてまいりましたが 仕事上高卒の資格が欲しくて、通信教育でしたが去年の三月に高校 も無事に卒業し、ひとり暮らしを始め、今年の七月には小さな店を 持つまでになってくれました。 私たちを頼りにせず、全てを自分で働いたお金で、学校も店舗も 自分で探し、立派にやり遂げてくれました。 何とか軌道に乗り「ご主人様に報告を」と、思って居たところでした。 少しですがお花でも供えて戴ければと思います。 却って心配されるといけないので、こんな形で申し訳ありません。 迷惑をかけた娘の母より   「孝行したいときには親が居ない」とは世の常ですが、この娘さんも 同じ思いをしたことと思います。 お母さんが娘のその言葉を聞いたのか、その心を察したのか12月15日 箕浦さんのご命日の朝まだ暗い内に、この手紙を郵便受けに入れて置 かれたようです。 母親として嬉しさのにじむ、そして、感謝の気持ちを込めた手紙です。 いまの箕浦家の方はどの娘さんのことやらご存じはありませんが、この 親子の行為に感謝し、亡くなったご主人のことを思いだし、お仏壇に 新しい大きな白い菊をお供えされておいででした。 不良行為をする子供の両親を見ますと、どうもその子にもまして不道徳 のことが多いようです。この娘さんのときは、いまは亡き箕浦さんの指導 もあったでしょうが、両親の心配心を察し、さらに態度の感ずるところが あって更正できたのかもしれません。 このご一家には共々に、新しい良い新年が迎えられる嬉しさが察せられます。 箕浦家の皆さんの清々しそうな顔を見ながら、暗い話が多い年の瀬のうれし い話でした。 感謝の気持ちは、やはり態度で表してこそ気持ちが伝わり、周りの人の気持ち を和ませることが出来るようです。 よい新年をお迎え下さい。
 南無妙法蓮華経   今日は或るお宅のご法事を勤めました。 そのお宅へ伺いますと、そのご主人のお母様で数年の闘病生活の 末ついに、帰らぬ人となられた方のことを思い出します。 そのご本人は最初から病気が「癌」であることを知っておいでに なったが、廻りで見ていると、何とも朗らかな人で、家族以外の 誰もが五十才ほどと思っていた。 実際は七十才であった。 その方は、何度も日赤に入退院を繰り返し、また、通院のときでも癌に対する薬の 点滴のあと、何日かは薬害で大変苦しそうであった。 ご本人にとっては病苦と死に対する不安は、いかばかりであったか推察するにも 余りあります。 しかし、信仰を持った人であった。朗らかなのである。明るいのである。  仏教では、苦を離れることを大目標とするが、生きているのだから身体に対する苦痛は、 何人も逃れることは出来ないのである。 しかし、身体に対する苦を如何にて心の苦としないですますかが,大切であろう。 これが苦を離れるということであろう。 普通の人ならば身体に苦痛が無くとも、心のやまいが身体のやまいを呼び込んでいる 人が多いのである。 お釈迦様も病気のときは苦しいと云われたそうである。 しかし、心まで病むことは決してなかった。このお母様のように、 その方は苦しんでいるご自分を、もう一人の自分が居て少し離れたところから、 見つめておいでであったように、私には思えてならない。 南無妙法蓮華経
 
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